HOMETOPICS > 日航機事故で他界された恩師、辻昌憲監督を偲ぶ 【大門監督手記】

印刷用

成績

日航機事故で他界された恩師、辻昌憲監督を偲ぶ 【大門監督手記】
今日は僕の最も尊敬する恩師である辻監督の29年目の命日だった。

あの痛ましい事故(1985年の日本航空123便墜落事故)から、もう30年を迎えようとしている昨今...。
毎年この時期になると独特の気持ちに襲われるのだが、今年も本当に色々な想いが僕の頭の中を駆け巡った...。


あの夏の日、僕を含めたチームメンバーは翌日から控えていた強化キャンプのために全員、河内長野の五輪荘(※後述)に泊まっていた。当時チームメイトの先輩だった国末さん、同期の大竹さん、原君らもいたと思う。

その前日、本社(シマノ・堺市)のチームデスク(当時はチームメンバー全員がQC/クオリィティーコントロール部署に所属していた)の朝礼で辻監督から、「俺は明日、東京の連盟に行って来るが、明後日からお前たちの早朝練習に間に合うようにできれば日帰りしたい。だからそのつもりで準備しとけよ」と言われ、その時のやりとりが生前の辻さんとの最後の会話になった...。

ちょうど夕食の前後だった。その日も暑い日だったが、日航機事故のことを最初にテレビのニュース速報が告げた前後だったと思う...。五輪荘の敷地内にあった監督の自宅から奥さんが走ってこられて「お父さんが乗ってるかも知れないから、良くテレビ見てて!」と告げられた。

常日頃から「電車(新幹線)で東京に行くと本を丁度一冊読みきれるからいい」と辻監督は周りに言ってたらしく、帰りも電車だったのでは?と勝手に色々と考えていた。時間を無駄にしない本当に勉強熱心な監督だった。
思わず下に降りて再確認したが、辻監督がいつも運転していたクラウンのステーションワゴン(当時では非常に珍しかった国内唯一のチームカー仕様車両)は、自宅に置いての東京出張だった。
一瞬頭の中が真っ白になったことを覚えてるが、その日は寝ずにずっと食堂のテレビ(真暗で僅かな火災がチラつく映像)に釘付けになっていたことを今でも鮮明に覚えている。 
そのうち乗客名簿から監督の名前も呼び上げられた。それでも無事を信じながら、ほとんど変化のない暗い映像の前で誰もいなくなった食堂でただ呆然と座りながら、あっという間に朝を迎えた。


今更こういう言い方は監督に対しても失礼なのだが、僕と同世代の選手、指導者、業界の方で辻監督の影響を受けた人、功績を知る人は少なくないはずだ。
今から30年以上も前の欧州の情報も今に比べて何倍も乏しい時代に、あんな夢のような環境が存在していたことは、僕も当事者ながらいまだに信じられない。
当時はもちろん携帯電話もインターネットもなかった時代である。

突然何者かに駆り立てられたように辻監督との思い出、生前の面影を回想したくなりウェブ上で検索しまくったが、意外にも生前の監督の写真すら発見できなかった。
幸いにも辻監督との思い出を綴った記述は今でもウェブ上で漂ってはいたが、2000年代に入ってから新たに語られた記述はほとんど見つけることはできなかった。
確かに昔はウェブ(インターネット)そのものが世の中に存在していなかった「紙の時代」だったとは言え、辻さんが1973年にシマノレーシングの監督に就任してからチームの活動の様子、偉業を紹介した記述すらウェブ上には、ほとんど見当たらない有様だった。

僕は当時まだ23才の若造であったが、単に辻さんが偉大な監督だったという印象に留まらず、今から考えても当時のシマノレーシングの体制(特に僕が加入する以前)は近寄りがたいオーラが周りに漂っていた。 
まさにトラの穴(今は死語?)のようなトレーニング施設の合宿所(五輪荘/河内長野の郊外にシマノが建設。今も建物は残ってるが当時の面影はない)には栄養士付の食堂、設備の整ったウエイトトレーニングジム、多くのツインベットルーム(6室?)、大きな浴室、今でも古さを全く感じさせないフルスペックの広いメカニックルームを備えていたし、敷地内にはなんと監督の家族が住む一戸建ての住居も建てられていた。

決して既にあった建物(物件)を改築したわけではない。設計段階から「海外の選手に打ち勝つ選手強化」を念頭に辻監督の監修の元、建造された素晴らしく理想に叶った施設だった。

いち早くオランダ人のトレーナーを雇い、ペーサー専用のバイクを輸入...。ウエアも特別に大手の衣料メーカーにエアロ効果の高い生地(今で言うスキンスーツ)で作らせていたのだが、いくらシマノの資本がバックにあったとは言え、その当時の「会社ぐるみの本気度」は凄すぎて「強くするために必要だったら惜しみなく金を使う」って概念すら超えてように思う。

当時、島野工業(現シマノ)の専務であった今は亡き島野敬三氏(後に社長)のレーシングチームへの情熱やチームへの思い入れは特別だったようで、まさにその専務の思想を反映させた直下型チームの全責任を担っていたのが辻監督だった。
専務からのチームへの期待、要求に応えるのは並大抵のことではなかったのだと思う。専務から呼び出されて帰って来たときの監督の感情の浮き沈みの激しさはよく見受けられたし、背中からもひしひしと伝わってきた。
お互いの情熱がショートしたのか? 専務との意見の衝突も日常茶飯事だった様子で、機嫌が悪い時は、訳も解らずいきなり怒鳴られたりもした。
僕なんかより当時の辻さんと長かった、坂東さん、岡島さん、長谷部さん、長さん、丸山さん、大久保さん、国末さん、中原さんらの黄金時代のチームメンバー、OBは今でもあの頃の張り詰めた雰囲気を鮮明に覚えてると思う。


それにしても辻さんが当時39才の若さだったことが今でも信じられない。
僕がもう50才をとっくに過ぎてることを考えると改めて自分自身の進歩のなさ、不甲斐なさに何とも言えない嫌悪感にも似た情けなさに思わず包み込まれてしまいそうになる。

辻さん、島野敬三氏の情熱溢れる手に寄って築き上げた選手強化の歴史、黄金時代を我々は決して風化させてはならない。
改めて今は亡き辻監督の成し遂げられなかった目標、夢を追っていく任務、使命を引き継ぐ仕事の重さを感じるとともに強く自覚させられた今年の8月12日だった。


大門 宏

« 戻る

TOPICS